あれあれ、もう12月30日。
そして満月。 今回は蟹座の満月。 蟹座といえば、守護星が月だったはず…、と思って調べてみるとやっぱりそう。 水のエレメントの蟹座で起こる満月か、ちょっと満腹感?消化不良?胃もたれ?のような感覚のある今回の満月。 友人が「あのさ、ビジョンボード作ろうと思うんだけど、何か良いアイデアはある?」 ビジョンボードっていうのは、アーティスティックな水のエレメントっぽい。 ビジョンボードは、ビジュアルでやるアファメーションみたいなので、例えば「来年の私」みたいなテーマで、「こんな仕事がしたい」とか、「こんな環境で働きたい」とか、「こんな所に住みたい」とか…そんなイメージをコラージュしたり、描いたりする方法。 因みに、私は意外とビジョンボードが肌に合わない。 私は全体の構図だとか、見てくれだとか、最終的に作品としてどーのこーの…になってしまい、目的から外れてしまう…。 そうじゃない人も、「どうやって始めたら良いのか分からない」という人も多いと思う。 そんな風にどうやってとか、どこから始めたら良いのかわからん…、という人や、ビジョンボードはちょっと…という人には、その代わり…といってはなんだけど、例えば、ピンタレストに、プライベートのボードを作ってイメージを集める…とかも面白いよ。 ある程度集まってくると、自分でも気付いていなかった夢の形のようなものが浮かび上がってくるから。 そこから、ビジョンボードにビジュアルとして表現しても良いし、文章が得意な人なら、文章に書いても良い。 ↑これらにピンと来ない人は私が今年やっていることをご紹介。 私はアグリーメントを作っています。 自分との契約、というかまあ、約束みたいなもの。 ポリシーと捉えてもOKで、簡単に言うと自分がすること、そしてしないことをハッキリ表したもの。 だから否定文は載せないアファメーションとはちょっとエネルギーが違うかもしれない。 そしてこれ、色々なことに転用が効く。 例えば、私は自分のヒーラーとしての仕事にもアグリーメントを作ってる。 ヒーラーとしての自分とする約束。 内容のフォーマットはないけれど、例えば私の場合、「セッション中、ヒーリングはクライアントにとって最善の形で起きる」といったものから、「常に最善の状態でセッションを提供できるよう、常に自分自身のメンテナンスを心がける」といったものまで、細かく記してある。 そうすることで、ブレないし、迷わないし、自分を疑わないでいられる。 まあ、アグリーメントとはこんな感じ。 これの全般的な「私との約束」バージョンをまず作ってみると面白い。 それから細かく、仕事という場面での自分とのアグリーメントや、リレーションシップという場面でのアグリーメントも作れる。 アグリーメントを作ると面白いのは、作る過程で、自分の制限や、引っかかっていることや、思い込みが出てくること。 最初はすぐに分からないかもしれないけれど、もうひとつ、アグリーメントの良いところは、これから常に加筆修正していけるところ。 一度書いてみて、実際に生きながら(行動しながら)フィットしない部分、または思い込みに気付いた場合も、書き直したり、加筆することができる。 だから、アグリーメントはどんどん長くなっていくのよ。 でも、ある程度の形にまとまったら、もう見なくなる。 アグリーメントに込めたエネルギーと、リアルな自分のエネルギーがシンクロすると、いちいち「ええっとアグリーメントは…」とかしない。 どんな表現でも構わないので、この蟹座の満月、「これまで」の精算と、「これから」を新たなエネルギーで進めるきっかけに、ビジョンボード、アグリーメント、アファメーション、おすすめですよ。
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今、大統領選を巡り、様々な情報や憶測が飛び交っているけれど、未だに不正が「あった」OR「なかった」という議論は論点がズレてると思うのよね。
私にとって不正も含めて嘘というのは常に、朝と夜の違いを「これは朝だ!」とか「いやいや、これは夜でしょう!」と論議しなくても分かるように明らかな、ある意味、物理現象みたいなもの。 宇宙の…というのが「広すぎ…」と感じるなら、この世の…でも良いけれど、これはエネルギーのシンプルな法則ともいうべき現象なんだよね。 だから私にとって論点は「気になる?」または「気にならない?」 嘘に対する耐性が論点なのよ、これは。 私は嘘に対する耐性が低く、それがしんどかったの。 というのも、この世界は嘘が散りばめられてるから。 直そうとしたけれど直せるもんじゃないので、私は、恐らくたくさんの人たち同様、長らく無関心を装って生きようとしてきたんだと思う。。 今、大統領選を巡って、メディアが発信しない様々な情報を発信している人たちや、彼らの発信する情報を追いかけている人たちの多くも、嘘に対する耐性が尽く低い人たちなんだと感じる。 私は個人的に、今、人類を分離している基準は、嘘に対する耐性の違いだと思ってるってて、インテリか?無知か?でもなく、英語が話せる?話せない?でもなく、右か?左か?でもなく、嘘が気にならないか?気になるか?の違い。 私は割と幼い頃から、自分という存在が、家族や友人も含めた周りの人たちと違うことが気になっていたんだけど、小さかった頃はどうしてそう感じるのか分からなかったし、考えようともしなかったのよ。 そんな感覚も2、3歳ぐらいまでは、自分は特別というポジティブな解釈ができてたけれど、小学生にもなる頃にはその特別さが損だと感じるように変わっていき、20歳にもなる頃には低い自尊心とか罪悪感に変わってました。 当時はわからなかったけど、これまでの地球って嘘がOK…というか、そこら中に嘘がばらまかれていたのよね。 だから「ここ」は、嘘が気になる私としては混乱する空間だった。 明らかに嘘なのに、身近な人たちの反応を見る限り…、OK?みたいな。 例えば、正義感が強いだとか、頭でっかちだとか、清濁合わせのむ器を…とか、色々アドバイスをこれまで受けたけれど、私にとっては普通の感覚で、頭は柔軟だし、めちゃくちゃ寛大なんだけど、それらが築かれてる土台が違うのよ。 私のは、嘘が嘘として明らか…という土台で、「まぁまぁ、そんな白黒付けなくても…」みたいな曖昧さは無いの。 ここでよく勘違いされるけれど、何が嘘で何が真実かを決めてるのは私では無いの。 これは宇宙のエネルギーの性質の現れ。 宇宙のエネルギーによって、朝が明らかに朝で、夜が明らかに夜で、熊は明らかに熊で、狼は狼であるように、嘘も真実も存在し始めた瞬間から嘘は嘘のままで、真実も真実のまま。 だから、例えば最高裁の判事とか、法の権力者が嘘を「真実」または、真実を「嘘」と判定したところで、私にとったら「で?」なのよ。 相変わらず、嘘は嘘のまま、真実は真実のままあり続けてるから。 論点は、「で?あなたは気になるの?それとも知らん顔するの?」なんだよ。 「あなたは自分が何を感じてるのか、知っていますか?」ということ。 嘘に対する耐性が低かった私は幼い頃から、理由も分からず混乱してしまったのよねぇ。 だからいつも、心のどこかに密やかな孤独感を持ってる。 孤独を表す英語にAloneとLonelyというのがあるんだけど、私の抱える密やかな孤独感って、Aloneなのよね。 違いは、Lonelyって個体として一人ってことで、例えば親が「子どもが巣立って寂しい」とか、「恋人がいないから寂しい」とか、そういう感じ。 Aloneは、家族や友人に囲まれてても感じる感覚。 Lonelinessは癒せるけれど、Alonenessはねぇ…本質がLonelinessと違うからある意味癒せないんだな。 コレクティブコンシャスネスが変われば自然に解消するような感じ。 嘘が嘘として、真実が真実として存在することを、私たちがそのまま感知して機能する世界には、私の抱える密やかな孤独感は存在しにくいと思う。 今年は、所謂肩書付きのコメンテーターというよりも、個人として時には顔出しで発信してらっしゃる方々や、それらの発信にアクセスしている方々のエネルギーに触れることができて良かった。 というのも、やっぱり同じように嘘に対する耐性が低い人たちで、中には私と同じような密やかな孤独感を知ってる人たちもいらっしゃるだろうから。 しかし、これは私が水瓶座だからかもしれないけれど、寂しいんじゃないから、それらの人々とグループ活動をしたいわけじゃないの。 LonelyとAloneの違い、嘘の耐性の違いを、どちらが上で、どちらが下という視点なく、フラットに理解して〜っていうだけのこと。 例えば、小麦粉アレルギーの人が米粉パンを食べるのを「え?何で?治したら?」なぁんて、誰も挑まないでしょ? または「え?アレルギーなん?!私も私も!じゃ、一緒にご飯しよか!」ってなっても良いけど、そこは別な話よね。 そうそう、そんな感じ。 上も下もない、横に奥にと広がる、個が個と繋がって広がるネットワークがこれからのエネルギーとマッチしてる。 これからは、組織に属していようといまいと、自分のスタンダードを意識できてるかどうか、それに対して勇気を持てるかどうか、そんなことが大切になってくると感じてる。 嘘と真実は、人間が決めることではなくて、もう明らかなことなの。 それに対して「あなたはどう反応しますか?」と問われてる。 問われているのはあくまで「あなた」自身の感覚、なんだね。 ただ、それだけのこと。 毎年、公共の交通機関が止まるイギリスは、25日はとても静か…。
24日はギリでブレグジットの合意もあったようだけど、これも来年、2点3点しそう? 近所に週末来てくれるファーマーズマーケットも、水曜日に年内最後の営業で、妙に暖かかった水曜日は、チャリティショップで見つけた70年代のワンピースにデニムジャケット一枚で出かけた私。 そして↑の写真で左手に持ってるのは紫のケール。 抱えてるのはニンジン、手に持ってる袋には林檎や梨がたっぷりと。 ほぼ毎週お世話になっていたので、本当は十分食糧はあったけれど行ったら、お店の人たちも「来てくれてありがとう!」 う〜ん、年の瀬感。 さてさて、クリスマスの日、日本の母と電話で話しました。 一見普通そうでいて、かなり個性派の母は例の如く、「あ!思い出した!聞きたいことあってん!」と叫ぶので、「え、何何??」と私。 「不思議なことやねん!」と母。 まさか宇宙人ネタ?!と期待も膨らんだところで…、「早よ話してよ!」となるのはお約束。 「あのな、昔の絵画とかで、キリストはどうして裸なん?」 面白いでしょ、ウチの母。 面白い大阪のおば(あ)ちゃんだけど、西洋美術が好きで、ロンドンのナショナルギャラリーなら一日中いれる人。 クラシック音楽も昔から好き。 だから↑ウケ狙いの質問じゃないのよ。 きっと、クリスマスーってことで思い出したんだろうね。 そこで私も「なんでかな?」と考えてみた。 母がどの作品を手に取ってこの質問をしてたのか知らないけれど、それこそロンドンのナショナルギャラリーのセインズベリーズウィングにあるような宗教絵画の時代、絵描きは職人だった。 印象派時代のモネやゴッホとは違って…。 修道院や教会、裕福な個人の顧客からコミッションを受けて作ってたわけだから、きっと宗教施設なら、その宗派の意向はもちろん政治的立場も、個人の顧客でも、その辺を理解して描かないとお金を払ってもらえなかったと思う。 母が「ほらほら、赤ちゃんの場合でも、布の上にぽんと赤ちゃんを置いてるやん?なんでやろ?」 「じゃ、お母さんが絵描きやったら、服着せてたと思う?」と私。 母はう〜んと唸ってから「布ぐらい巻いたかも…。」 美大出身でアートの先生をやったことがあるとはいえ、専攻は工芸の染織だった私だけど、多分、色んな見方ができて、今の私が感じたことを答えた。 「生まれる時も死ぬ時も、人間身一つ。それだけ完成度が高い、すべて持って生まれてきてるよってことじゃない?」 それに、同じことがテーマの絵画は、たとえ登場人物がたくさんいても「そこらへんの子たち」と、「キリスト」を見分けやすい構図や描写になってるから、絵を描かせ、後世に残した人たちは、きっとキリストの特別さを強調したかったんじゃない?って。 そこから話はどんどん、ショパンとカナレットや、イギリスのターナーに転がるように逸れていくのも、大阪人あるある。 ふと「今、何時や?」というので、私が「お昼ぐらい…かな。」と答えると、「そうか、今から一日が始まるんやな…」というので、オイオイオイッ、どんな1日や!それ半日やろっ!と突っ込みながら話していたら、欠点の話に。 母がわざとらしく深妙な声音で「私な、もう決めてん。」 何を? 「もう出しゃばらないって決めてん。」 え?そこがお母さんの一番パワーが炸裂するところやん!と私。 私の母は、私や姉なら当然だけど、友人知人相手でも、他人がやろうとしてることを察知して、考えるより早くに「ほな助けよか?!」とか、「こうしたらエエよ!」とか、自分の中に湧き出るインスピレーションを惜しみなく出して助けてくれる。 でも、それが干渉されるようで嫌がられたり、嫉妬されたりすることはあるし、それは仕方無い。 そしてそれが「影口」となって母の耳に届くことがあると、内側で大真面目に反省するタイプ。 言う方も、嫌だと思ってるのは自分の問題で、嫉妬してることだってどこかでわかってるから、母に正面から文句を言えず、陰口になって伝わったんだろうけど、母だけでなく色んな人間関係でよくあること。 だから、私たちって結構自分の特技を欠点だと思い込んでるんだよねぇ。 そう言った私に「いや、ええねん。私は。もうやめるねん。出しゃばりはやめるねん。」と言い続けるので私は思わず笑い出してしまったの。 っていうのもね、それぐらいで「やめられる」ようなことなら、個性でもないし、誰かに迷惑かけることもないから。 「そんな簡単にやめられへんって」と私。 そう言うと母も笑い出してしまった。 そうなのよ。 才能、個性って、生命力そのものだから、やめて!と言われ「はい!やめます!」と言ったところで! 誰かが嫌な気分になったことは残念だけど、殆どの人は喜んでくれるし、何よりも、ある意味才能であることに文句言われても…! 謝りたければ謝れば良いけれど、ついでに自分の良いところを否定しちゃうのはもったいない。 じゃ、どうすれば良いか? 私は笑い飛ばしてしまえば良いと思う。 「そーやねん私、出しゃばりやわ〜。体が勝手に動いてしまうねんやわ〜」てネタにしてしまえば良いと思う。 大阪の人ってそういうの得意で、アクシデントやハプニングに遭っている最中でも、頭のどこかで「これを如何に後で面白おかしく伝えるか」って笑いを取ること考えてるもの。 自分のアクシデントやピンチも、「後々これで如何に笑わせられるか?」が視点の一つとして必ずあるよね?大阪の人? だから、お笑い芸人が知事になってしまったんだろうなぁ。 あの時、家のテレビの前で亡き父が「オイッ、ほんまになってしもたぞ!!えらいこっちゃ!こんなん選んでどーすんねんっ!」て、それでも笑いながら言ってたなぁ…。 反省して、落ち込んでしまうようなタイプの人はぜひ、この大阪メソッドで笑い飛ばしてほしい。 何だろう、これからそういう場面が増えそうな気がするの。 そんな時、周りの人や社会的にはきちんと対応しつつ、自分にだけは↑の大阪メソッドで笑い飛ばせるぐらい、自分のことをよく知ってあげてほしい。 というわけで大阪メソッド、思い出してね。 |
Ray of Sunshine
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