というわけで、大阪生まれの私、週末に大阪へ行ってきた! 故郷のエネルギーというのは、たとえそこに拠点をなくしたとしても、戻るとすぐにチャージされる気がする。 昔、大阪で飼っていた犬が、親が静岡へ引っ越したため、一緒に静岡へ行き、たまたま大阪へ連れ帰った時に、私もイギリスから一時帰国していて、一緒に長居公園を散歩したことがあった。 その時の犬の表情?顔?ま、要するにエネルギーなのだけど、まるでスイッチが入ったかのように輝いていたの。 このワンコはとても良い子で、静岡でも幸せそうにしていた。 でも、大阪で散歩に出かけた時のあの表情。 今でも忘れられない。 人も同じ。 それぐらい、故郷の土地との繋がりは強力なんだなぁって思うよ。 東京と比べると、やっぱり大阪はのどかで人もオープン。
それは訪れている観光客も共鳴するらしく、よく話しかけられた。 日本語でしゃべりつつ、こっちもスマホを見ながら道を見ていたら、アメリカからやってきた(と英語のアクセントで推察)ファミリーに電車の切符を見せられ、「ユニバーサルシティに行きたいのだけど、どこから電車に乗るのかわかる?」と新幹線のりばの前で聞かれた。 私はユニバーサルシティも、スタジオも行ったことないけど、JRの在来線の切符っぽかったから、「こっちきて」と掲示板を指し、「このJRのサインについていってみて。プラットフォームはまたそこで誰かが助けてくれると思うから。Have fun!」と言った。 大丈夫だったかな? 他にも切符の販売機の前で石になっていたヨーロッパ人や、これは東京だけど、迷子になった私が駅員さんのところへ行ったら、たまたま先客がいて、多分英語からスペインかポルトガルからの旅行者の男性と駅員さんが不毛なコミュニケーションを続けていたところに遭遇。 双方の言いたいことがわかる私には、お互い通じ合ってないこともわかったので、「いやいや、そーじゃなくて」と会話に入ってコミュニケーションの交通整理をしたら、双方からめちゃくちゃ感謝された。 何も外国人だけじゃない。 大阪では、休みの日の朝、目的地で向かおうとする私の後ろを、子どもの足音がしたので振り返ると、小1ぐらいの女の子が一人で、お稽古バッグに帽子姿で歩いていた。 目が合ったのでにっこりしてまた歩いていると、話しかけたそうに隣に出てくるので、何か困ってるのかな?と思って、「大丈夫?」と話しかけた。 そしたらそこから、「うん。あのね、今からあそこの保育園行くの。もう学校に上がったんだけど、今日だけ保育園でお友達と過ごすの!」と教えてくれた。 ちょうど角のところで話しかけられ、まっすぐ行こうと思ってたけど、「あそこの保育園」まで、「じゃ、そこまで一緒に歩こうか?」と言うと、「うん!」と言って、おしゃべりしながら一緒に歩いた。 一緒に歩いたといっても、家にしてほんの2、3軒だったけど、スキップして楽しそうな子どもと歩き、保育園までご一緒した私が「じゃ、楽しんでいってらっしゃい」と手を振ると、「うん!またね!」とその子もバイバイしながら園の中に消えていった。 東京ではまだ、こんなフレンドリーな子に会ったことがないけど、いるところにはいるんだろうな。 「知らない人についてっちゃだめよ」とか、 「知らない人に話しかけられても答えちゃだめよ」とか、 言いたくなるけれど、そこに脅威はなかったから無駄に怖がらせるのはやめた。 そういう情報は必要な時に必要なだけ、もたらされるべきところから、最もそれぞれに相応しい形でもたらされるのだと思うし、その子の生命力の強さも感じた。 こちらがそれを感じれば、それはより強まっていくと思う。 信じることは祝福なんだなぁ、祝福。 今回は、見晴の良いラウンジから、地下の蕎麦屋さんから、小料理屋さんに、キタからミナミ、ヒガシにニシにと、縦横無尽のウェークエンドだった。 今回のチャージ完了。 おつきあいくださったみなさん、ありがとう!
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前提として、全てのものは常に変化している。
そんなわけで私は、ある時から、メディテーションをしていると、感動して涙が溢れることが増えた。(毎回ではない) それは、心の底から、全てありのままの全てが完璧なのだと感じれた時。 肉体を持つ私の目にうつる、あらゆる不完全さ、醜さ、全てがそれで完璧なんだと感じれた。 …っていうと、「でも不完全さ」とか言ってる時点で「不完全って思ってるからあかんやん」とツッコミが入るかもしれないけれど、それはねぇ、不思議なんだけど、その通りなんだよね。 不完全は不完全、だけど、今この瞬間、その不完全さが完璧、そんな感じなのよ。 「だったらそのまま不完全でいいだろ」なぁんて、意地悪なツッコミも入るかもしれないけど、正にそこ。 前提として、全てのものは常に変化している。 だから、不完全さも、醜さも、美しさも、完璧さも、常に変化してる。 「だったらそのまま不完全でいい」は不可能なんだよ。 でもわかる「変わりたい」と感じる部分。 それは何か? というより、どう定義すればよいか? そんな思いをエネルギー専用の電子顕微鏡で拡大してみる。(イメージの顕微鏡やで。Amazonには無いよ〜) そしたらそれは、単に「新しいやり方を学ぼうとしてる」とか、「これまでと違うことをやりたくなってる」とか、そんな感じなん。 そういう風に視点を変えると、もっと応援するエネルギーが湧いてくる。 そうやって「風」が、流れが生まれる。 だからね、「変わりたい」と思ってるうちは変われない。 なぜなら、「変わりたいと思ってる」をやりたいから。 そこで完結してる。 自分をダメだと、それではダメだと認定したかった、だから完結してしまう。 だから変われないし、そもそも「変わりたかった」わけじゃないやん? やりたかったのは、その「新しいこと」だったり、「やり方」だったりしたわけでしょ? それらをやれば「変わる」は必然。 それらができたら変わってようが変わっていまいが、「どうでも良い」でしょ? 「変わりたい」というテーマでやってくるクライアントさんって、皆、「否定」のエネルギー満載でやってくる。 でも気づいてない。 否定のエネルギーは、正しさという仮面でカバーされてる。 だから、そんな自分のエネルギーに気づいた時に、グッとくる。 エネルギーの言語って、自分の頭の中と全然違うから。 エネルギー的に自分が何を発しているのか? それが大切。 先日の月。 なぜかくっきり撮れず、その晩はこれがベスト。 もうすぐ満ちる。 そしたら新月に仕込んだ松葉酒を開けるんだ〜っと。 正に、今の社会の暗部を見せてくれてるようなドキュメンタリー映画「コレクティブ 国家の嘘」を見た。
transformer.co.jp/m/colectiv/ 今ならアマプラで見れる。 「これすごいよくわかるよ」と勧められて見たけど、本当にすごい。 ルーマニアで起きたライブハウスの火事をきっかけに、医療汚職事件が明るみになっていく。 映画に出てくる女医、カメリア・ロイウ(CAMELIA ROIU)のセリフ、 「私の母に言わせると、私たちは人間じゃなくなってしまった」というところや、薄めた消毒液を使っていたことは病院からしたら「実験なんだ」みたいなセリフ。 拝金主義に走り、目的を見失ってしまった医療関係者たちが起こした、最悪の人災。 日本は医療信仰が強いけど、ルーマニアの人たちのように厳しい近代史を体験してきた国だと医療信仰はそれほどでもない。 世界中で、新型ワクチンの欠陥が証拠と共に告発されている中、日本はガラパゴス状態で、まだ並ぶ人までいただけじゃなく、帯状疱疹からインフルエンザとどんどん色んな注射を打つ。 すごい。 ルーマニアは、ヨーロッパで1、2を争うくらい、コロナ騒動が早々に終焉した国だ。 多分、国民は最初から「知るか、んなもん!」と取り合わなかったんだろうな。 コレクティブに見るような医療の闇は、日本でもイギリスでもアメリカでも、ほぼ全ての国々で大小差はあれど起きていることだけど、日本とルーマニアが違うのは、ジャーナリストたちのまともなこと。 本来の仕事してるなーって思う。 |
Ray of Sunshine
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