私が幼稚園の頃、テレビでまんがの一休さんをやっていた。
その中で、一休さんが瞑想する時、両手の人差し指をこめかみに当てるのだけど、あれ、今更ながらにまとを得ている!と感心する。 以前少し書いたインテンション、最低でも14秒間(雑念無し)にホールドしなくては、可能性として存在すらできない。 インテンションとは、思考にスピードがついたもの。 私、こういう人間なので、「14秒間、どこにホールドすれば良いのだ?」と思うわけ。 この「どこ」が明確じゃないまま、「よし!わかったよ!」とならない。 それは深さも、中に何がいるのかも分からない池とかプールで、夜に泳ぐようなもの。 そこで私が勉強したやり方は、脳の中央に…ということで、ちょうどあの一休さんの瞑想スタイルで、両手の人差し指が指すところ!ということになる。 そこら辺には、視床下部があり、視床下部そのもので感情は作られこそしないものの、他の臓器で作られた感情が、視床下部の細胞にも蓄積されてる。 思考は視床下部でインテンションとなり、そこから内分泌器官や、神経を通して全身に行き渡る…のだけど、言わずもがな、現代人の視床下部、内分泌系、神経の細胞たちは、既に蓄積されたネガティブな思念や感情の周波数でいっぱい。 だから、ストレートにインテンションが行き渡らず、「思ったのと少し違う」とか、「叶うまでに時間がかかる」とか、場合によっては「一向に実現せず」みたいなことになっちゃうわけだ。 つまり最初に雑念無し…と書いたけど、雑念が混じると、雑念込みで可能性となること、=「ストレートにインテンションが行き渡らない」状態。 私は、アイデアがあると、まず思考スタイルに翻訳して、それを早速視床下部に持っていくのだけど、細胞に雑念があると、風船みたいに雑念がどんどん出てくる。 それらを、風船売りが風船を紐で束ねるように捕まえ、時には一つずつ、時にはまとめて、時には一つ解消すれば全ての風船が消えることもあるけれど、エネルギー的に「delete」してから、どんどん、思考にスピードを加える。 そうやってる時に、実は「本心から来ていない思考だった」と気付かされることもある。 私たち人間は、ついつい「誰か」の期待に応えようとして、「自分の本心」が求めることよりも、抽象的な「誰か」の期待に応えようとしちゃう。 そんな「誰か」の期待なんて、「妄想」の域を出ないのだけど。 ↓初収穫したそら豆を、鉄フライパンでサラッと塩胡椒して炒めただけ…なんだけど、めちゃくちゃ美味しかった。 7月にもう一度種を蒔くことができるので、冬にも収穫ができそう。 我が家の庭は、引っ越ししたての頃、どうしようもないほどナメクジがウヨウヨいた。 私の指より長く太い、殆どヘビのようなナメクジがいて困っていた。 「ペレットとか使わない、何か良い対策はないものか」と、視床下部でホールドしていたら…、いつの間にか、鳥さんたちが「最高の餌場である」と気づいてくれ、ブラックバードから、ロビン、他にもいろんな鳥さんたちが食べにきてくれるようになり、今では殆どナメクジが生き残れるチャンスは無く、滅多に見ない。 カタツムリですら、ブラックバードに突かれ、中身をほじくり出され食べられているのを目撃したぐらいだもの。 「ああやって食べるのかー」って。 おかげさまでそら豆も無事に育ちました、鳥さんありがとう。
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Ray of Sunshine
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