求めよ、さらば与えられん…と言うように、求め続けるから与えられ続ける。 今こそ、私たちひとりひとりが賢くなる時…というのは、答えを誰かやどこかに求めるのをやめなくちゃということ。 というわけで今日も読んでいる。 今年は、たとえ善良でも医師やそのほかの権威だと主張する個々の話はもう良いかなぁ〜と思ってる。 これまでは「へぇ〜!」だったかもしれないけど、ここからは「ふ〜ん」っていう感じで。 情報→知恵、という風に、情報はアクセスするタイミングで正誤が生じるけど、知恵というのは不変だから。 変わり続けるものに惑わされず、不変のものをしっかり見つめられるようになろうと思う。 それには私自身も、抽象度を上げて、知識を磨いていかなくちゃ…と思ってる。 言うは易し…で、なかなか年齢と共に本を読むスピードも落ちてきていて、大変だけど、続けることが大事なので少しずつ…。 ここ4年間は、いわゆる医療関係者が専門家として無責任な情報を垂れ流してたけど、ここ最近の傾向として「伝統」とか、「家系」とかを背負っているという関係者が目立ってきてる。 私にはよくわからない。 自分のルーツに思いを馳せても交わらない・重ならない感じが「なんとなく」するので深入りはせず、私は私の道を歩いていく。 向かう先が同じなら、また交わることもあるでしょう。 ハメルーンの笛吹きという話、覚えてる?(↑画像はネットから) 笛吹きの笛はSNSに取って変わり、笛の音に惑わされついていったら戻れない。 黙示録だったと思うけど、笛を吹かせてる存在、笛を吹く存在だけじゃなく、笛に惑わされる者も同様に悪いという話が聖書にもある。 英語でもこんな言い回しがある。 "Fool me once, shame on you. Fool me twice, shame on me. Fool me three times, shame on both of us." 初めて騙された時は騙す奴が悪い(と言っても許される)けど、 また騙されたら、それはもう騙された自分が悪いのだ。 そして再び騙されたら、騙す奴も騙された自分も同罪だ、というような意味。 笛に惑わされ、注射を打ちたくないのに打った場合も、自分が「そう選択した」だけ。 厳しい言い方になるけれどそういうことになる。 だからといって泣き寝入りする必要もなく、自分の選択の結果は自分できちんと受け止めて、しかるべき救済を選択していくことも大事。 インフォームドコンセントがきちんと取られていなかったというのは、世界中で事実だということが明らかになってきていて、それはそれで詳らかにされていくだろうけど、 だから自分は悪くないというスタンス(自分は被害者なのだ)のままだと、永遠に自分の内から創造できないということで、一生誰かや何かの影響に惑わされ続けて生きることになる。 自分が被害者であるというアイデンティティを持ってしまうと、加害者と救済者を必要とし続けるシステムが自分の思考、行動の中にできあがるからだ。 というわけで、今年に入ってあちらこちらで、笛吹きらしき存在が増え、笛の音も大きくなってきているので、注意を払いながら進めていきたいと思う。 これは2017年のエコノミストの表紙。(↑画像はネットから)
タロットカード8枚が選ばれているけど、その1枚Hermit(隠者)で現代の笛吹きに見えるけど、もはや「笛吹き」が先頭を歩いていないのが興味深い。
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今年買ってよかったもの、いろいろあるけど、やっぱりこのアタッチメントつけて使うハンドミキサーかな。
一気に台所のバラエティが広がって、俄かに充実した私の食生活。 …という風に、荷物が断然増えてきていて、これまでの人生で一番モノを持っているかもしれない今。 ど・う・し・よ・う・・・・。 実は数回「よし!断捨離しよう」と思い立ったものの、結局「あれ?何も捨てるものなくない?」となって断念。 この断捨離って10年以上前に、SNSで「断捨離してますー」みたいなを投稿を見て、「いいね!」と思ってやっていた。 それ以来定期的に断捨離してたから、割とミニマムに暮らしていた私にしては、めちゃくちゃ荷物多し。 でも11月頃に、「以前の私の在り方」みたいなのに擦り合わせるのをあきらめることにした。 ロックダウン中にロンドンでメディテーションする時に、いつも「私は今現在の世界を完全な不完全さも、素晴らしい醜さも、理不尽さも完璧に、そのまま愛します」っていうアファメーションでやり始めたんだけど、これは今の自分自身をありのまま受け入れますというワークで、クリックしたら涙が出るぐらい強力。 ↑はもちろん、私がいる「今」という座標はひとつだけ、そこからいかようにも、どこへでも行けるし、そうやって続いていくというイメージが前提。 だから「あ、そっか〜」と、変わっていくと感じることを不安に感じるのはもうやめるかーって思ったの。(それが11月) NOからじゃなく、YESから選ぶって大事やなぁと思う。 例えば、「会社やめたい」も、「嫌だからやめる」だとNOから辞めることになる。 でも、「辞めたいから辞める!」だとYESから辞めることになる。 些細そうで、言葉遊びみたいだけど、エネルギー的には結構大事で、着地点が変わる。 他にも、「あの人苦手」も、「あの人苦手」だとNOで、アンハッピーなのは自分。 でも、「あの人苦手だから距離を置いてみる」だとYESで、自分は平和。 私、イギリスへは1998年に留学で行ったのだけど、その時の私は「イギリス行きたい!」で、これはYESから。 修士課程を修了して周りの留学生が帰国準備する中、「帰りたくない」というNOからの、「イギリスに残りたい!」でYESに移行、そこから「日本に帰りたく無い」でNOへ戻る…みたいな感じだった。 当時は意識できてなかったけど、最近面白いことに気づいてね。 最初の「帰りたくない」というNOのスペースは、割と留学生が皆思うこと。 その時は皆でその思いを何となく共有してた。 そこから、自分の意思で「イギリスに残りたい!」というYESのスペースが生まれた。 それを表現したら、周りの反応があった。 「えーえー!羨ましいな!」とか、 「そっかー。私は親が戻ってこいってうるさいのよー」とか、 「フィアンセが待ってるからー」とか。 そこでちょっと感じる思いがあったのに、当時の私は感情のことに無知だったから、スルーして言い訳した。 それが「日本に帰りたくない」というNOのスペース。 「私、帰るとこないし」みたいに、自分にも言い聞かせミスリードした私は、結局NOから選ぶことになった。 その後も道は開けたし、良いこともたくさんあったから後悔はしてない。 いずれにせよ、残っていただろうから。 だけど、今はもっとYESのスペースから選ぶ方が良いと感じてる。 NOのスペースから選ぶとは、自分をミスリードして、そこで提起されてる本質的な課題に向き合えないまま、遠回りを繰り返すことになると思う。 だから、YESのスペースから選ぶ方が絶対にスムーズなんだなぁ。 文章の最後はYESになってるか、自分でもチェックしてみて。 ちょっとしたことだけど、エネルギーの出し方、出方が変わるから。 昨日のポストに書いたように母に「暖房ぐらいつけなさいよ、暖房費カンパするから」と言ったら「心配ご無用」だったようで、私に言われたからじゃなく、注射も「キリがない」とか「髪が抜ける」とか自分で体験して止めたのだと返信が返ってきた。
暖房については、お金の問題じゃないのはわかってたけど、ウチの母はこういう変なところで我慢?節約?しようとするのでああ言ってよかった。 3回打ってしまったことは悲しかったけど、ウチの母じゃなくても、身をもって体験して決めたことは揺るぎないから、打たなければ一番よかったけど本人的にはこれが自分の選択だから良かったのでしょう。 |
Ray of Sunshine
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