世界のあちらこちらで,喧嘩腰のエネルギーがボッボッと火を噴いてる。
エネルギーワーカーは、全て自分のエネルギーから始まるというのを原則としている。 世界中が互いに喧嘩腰ということは、世界中が分断していたということ。 世界中が分断していたということは、自分自身が分断していたということ。 自分自身が分断されている…というのは、自分が自分と対立する構図だと思えば良い。 それは自分が自分に喧嘩を売ってる生き方。 例えば、「こんな仕事がしたい!」と思った矢先に、「でも私には十分な経歴も無いし…」とも思ってる時、自分は自分と対立している。 これは典型的な人間臭い思考パターンで、アファメーションしようが、願いを叶えようとノートを買ってみても、なかなかうまくいかないのはこのためだ。 それは、自分が自分と対立したまま願ってるからだ。 やり方や理屈はほぼ正解でも、エネルギーが裏切ってる(=自分が自分と対立したままだ)から、なかなか実現しない。 というわけで、自分自身の思い込みだとか、期限切れの感情や思考の屑をどんどんクリアにしながら、軌道修正していく。 自分が自分に喧嘩を売る方法は他にもある。 例えば、既にやったことにも同じようにダメ出しをして、自分自身に怒り、失望している時。 そうやって少しずつ、自分自身に喧嘩腰で生きるのをやめていくと、今度は「…あ、世界にも喧嘩腰だった…」と気づく。 世界に対して喧嘩腰って、「〇〇のせいだ」とか「〇〇は悪だ」とか、相手…それは個人でも団体でも、思想や宗教、教育なんかのシステムでも何でも当てはまるんだけど、とにかく何かを「悪い」と捉えること、決めつけること。 世界に対しても喧嘩腰で生きていた私が言うのも何だけど…、それについて情報発信をしたり、場合によっては法的に証明したりすることが、その人にとって意味があることでなければ、「誰かのやった何かに対して反応させられているだけ」で、自分のクリエイションが疎かになってしまう。 じゃ、目を瞑るのか?というと、それは違う。 ちゃんと見据える。 なぜなら、本質が分かれば自分の選択ができるから。 例えば、こちらのポストで紹介したトニー・ロビンス。 「CNNは悪ってわけじゃないんだ。彼らは金儲けがしたいだけなのさ。」 そうは思わない人もたくさんいるだろうし、何らかの実害を被った場合もあるかもしれない。 でも、特に直接害を被ったわけじゃない多くの場合、そこで感情的に反応していると自分自身のクリエイションが疎かになってしまう。 私はCNNどころか、テレビを持たない暮らしをしているので、何も見ないけれど、更に「テレビやめてよかったなぁ…。さ、自分のクリエイションクリエイション!」となった。 自分自身のクリエイションは、自分が生まれてきた目的でもある。 「悪いと捉えても、自分のクリエイションが疎かにならなきゃ良いんでしょう?」という場合もあるかもしれない。 でもやっぱり、それは成り立たない。 そこに何らかの意味がなければ…。 エネルギーの基本は自分だから。 自分が全てを作っているから。 例えば、よく学校とか、家庭で「悪口は言ってはいけないよ」って言うけれど…。 その本当の理由は誰も教えない。 倫理的な理由じゃないのよ。 これを、恐らく今まで「世界に悪態吐きながら生きてきた」時間の方が、まだまだ圧倒的に長い私が言うのもなんだけど…。 エネルギーワークとかで、「自分に対してネガティブなことを言うのはやめましょう」ともよく言うけれど、それだけじゃ不十分なの。 自分に対してどれだけネガティブなことを言い続けていたかを思い知ったら、次は自分の作ったクリエイションに対しても、悪態を吐くのをやめなくちゃならないことに気づいた。 自分のクリエイションとは、自分の体験のこと。 だから、現在のメディアの在り方も、私にとっては私自身のクリエイションの一部になる。 私が彼らを「どう体験したか?」は、100%私のクリエイション。 だからこそ、誰かや何かに対して、自分が生きる世界の何かに悪態を吐いたままでは、自分自身にダメ出しし続けてることになる。 そのままでは、「私は私の現実を100%作ってる」ことにならない。 だから「悪口はいけません」なんだと思う。 だからといって「皆,天使」ではないよ。 その本質に気づいたら、「なーるほど。わかりました。」 そして、選択する。 決して、バラ色の世界を見ようとしなくて良い。 そのまま、ありのまま捉えれば良い…というのはこういうことだね。 トニー・ロビンスの、「CNNが悪というわけじゃない。彼らは利益を出したいからさ」という言い方、対立を生まない生き方、それは自分のクリエイションを全て受け入れてるということなんじゃないかと私は感じる。 つまりそれこそ豊かな生き方…なんじゃないかと。 ↓去年作ったブルーがテーマのネックレス。 第5チャクラがテーマ。 自分のエネルギーを自分らしく表現する。 ↓詳細はこちらから。 https://www.etsy.com/uk/shop/kaekonakagawa?ref=profile_header
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これは一般的にカルマと呼ばれるもの。
私は、一般的な意味でのカルマという言葉の使われ方が好きじゃない。 重たくて罪の意識を助長するようなイメージがある気がするから。 それは何度も何度も私たちの前に、パターンとなって現れるシチュエーションで、私にとってカルマとは、前世の過ちによる罰を償うというものでもなく、いつかの人生において作った期限切れの囚われた感情やネガティブな思考を消化するための機会という方がしっくりくる。 それは「今度こそ克服するぞ〜」みたいな感じ。 このカルマ(と呼ばれるシチュエーション)には、それぞれが今回の人生でマスターしようと思っていることのエッセンスが含まれてる。 例えば、ある人が今回の人生で「ひとりぼっちになる恐れを克服しよう」と思っていたら、その人にはまず「ひとりぼっちだ」と感じるシチュエーションが用意される。 それはその人が「ひとりぼっちになる恐怖」を克服しに来たから。 この、克服する…だけど、この人の例の場合、克服すること=ひとりぼっちで生きることではない。 しかも、克服できたかどうか…よりも、この恐怖とどう向き合ってるか?の方が大切だったりする。 そう、どんな風に克服するか?またはしているか? それがクリエイトし続ける…ということ。 こないだ、同じくイギリスに暮らす20年来の友人と話してた時に、カルマの話じゃないけれど、私が「自分の直したい癖の一つ」として「心にも無いことを言うのをやめる」という話をしたら、友人が「わかるわー!それ私もやってしまうわ。」 私は、誰かと話していて、その人と何の接点も感じられない時、相手の身につけてるものや髪型なんかを褒めてしまう時がある。 変な服だとか、靴だとか、髪型だとか、思ってるわけではないけど、別に「素敵だ」とも「好みだわ」とも思っていないのに、「その靴素敵ですよねぇ」とか言ってしまったりするようにいつの間にかなっていた。 最初は全然気づいてなかった。 でも、相手は悪い気がしないので、それどころか親しみさえ抱いてくれ、段々近づいてくるので、しんどくなってしまい…「なんでこの人こんなに私に懐いてくるんだろう?」と苦悩してしまっていた。 自分で蒔いた種により,人間関係で窮屈な思いをして「ああ、人間て面倒…」と思ったりしたけれど、違う、面倒なのは自分だった。 心にも無いことを言うから誤解が誤解を招き、訳がわからなくなってしまっていたのだ。 「接点が感じられない」ことを、申し訳ない…みたいに感じて、勝手に「気を使っていた」ことに気づいた。 その証拠に、この長い付き合いの友人と初めて出会った時のことは今でもはっきり覚えてるのだけど、あるパーティで、タバコ吸いながら手には酒…(今はタバコは吸わないし、酒もそんなに飲まないけど若い頃は部屋にウォッカのボトルを常備していた)で、赤いプラスチック感丸出しの当時イギリスの若者の間で流行ってたピタッとしたブーツを履いてて、「うわー、なんだコイツ…」と思ったのを覚えてる。 友だちになってからわかったのだけど、彼女は北欧のひとだから、「イギリスっぽい格好がしたい」と、わざわざそういうチープなルックスのブーツを買ったりしてたのだった。 なんと、ずっと友だちである。 私の場合は、友だちになろうとしないまま友だちになれる相手が、私の好きな人間みたいなのだ。 要するに、私が取り繕わなくて良いということ。 そして、本心じゃないことは言わなくても良いということ。 つまり、私のカルマの一つは「嫌われる恐れを克服して、自分の心に沿ったスピーチ、表現をマスターする」だ。 話すことだけじゃない、考え方、物の見方や捉え方、服など身につけるものから、生き方全てにおいて、自分の心が感じるままに表現すること。 嫌われる恐れ…だけどね、自分に嘘をついてまでしても、ダメになる人間関係はどうやってもダメになる。 ところが、タバコにウォッカと赤いブーツの彼女とは、一度地球にヒビが入るような喧嘩もしたけれど、未だに友だちである。 この友人は、パンデミックを機に国へ帰る決意をした。 寂しくなるなぁ。 インディペンデントメディアのプロジェクトヴェリタス(以下PV)が最近暴露したCNNのことを、モーティベイショナルスピーカーのトニー・ロビンスが話してる動画を見た。
https://www.youtube.com/watch?v=TqnoT9Ptca4 トニー・ロビンスが「良い人生を送りたかったら、全てをありのままに捉えること」と言うところから始まる短い動画。 正直トニー・ロビンスの動画は、数年前に、それより更に数年前に撮られた動画をチラッと見ただけだけど、そこでも基本的に同じことを彼は話してたな。 では、その「ありのままに捉える」とはどういうことか? 例えば、誰かが嘘をついてるな…と気づいたら、「ああ、この人は嘘を言ってるのだな」と認識する。 それを「このヤロー!嘘ついてるだろー!」と怒れば、それは「ありのまま(=嘘をつく相手)」に反応していることになるので、ブーッ❌、ハズレ。 反応してしまうのは、「反応させられてる」ので、相手に合わせてること。 そしてこちらには怒りや悲しみが残り、それはやがて色々なことへの憎しみになって、分断を起こすから…結局被害を被るのは反応した人。 相手が事象や事件、団体や組織でも基本は同じで、例えばCNNのやつ。 看護師の振りをしたPVのアンダーカバージャーナリストが、CNNのシニアスタッフとデートするフリをして、いろいろ質問し、そのスタッフがペラペラと◯ホみたいに喋る様子を隠し撮りした。 そこでCNNのシニアスタッフはア◯みたいに「恐怖は売れるから」とか色々聞かれたくないだろうことを話してた。 それについて話してるトニー・ロビンスは「CNNは別に悪人じゃないけど、彼らは儲けたいんだよ」って言ってるのだけど、 確かに、はっきり言ってCNNが悪人かどうかなんて、どうだって良い。 ポイントは、ジャーナリズムよりも金儲け重視ってことなのね〜ということ。 なぜ「ありのままに捉える」ことが、より良い人生を生きることにつながるのか…、ここにヒントがある。 そもそも、ありのままに捉える…のは、自分が自分にとって最善の選択をするため。 目の前の人が嘘をついていることに気づいた時、 嘘を聞き続けるのか? それとも適当にあしらって立ち去るのか? それとも…?? CNNだけじゃない、大手のメディアやSNSの企業は儲かることをしてる。 こっちとしては彼らのロジック(彼らのゲームのルール)が分かれば、「なるほど」であって、また自分のクリエイション(自分のゲーム)に意識を戻す…と。 でないと世界がストップしてしまう…パンデミックの最初みたく。 私はそれをロックダウンで学んだよ。 PVの人たちみたいに「伝える」ことがお役目(自分がプレイするゲーム)の場合もあるだろうけど、皆が皆そうではなく、私にも私のお役目がある。 それは職業として感じられる場合も、肩書きと直結してる場合もあるけれど、最初は抽象的なインスピレーションとしてあり、何か特別な職業や肩書き、場所や対象からグイグイ迫っていくものではない。 嘘に気づいても、怒り続けて、そこから目をそらせなくなってしまうと、それが自分のクリエイションでない場合、自分のゲームがお留守になってしまう。 トニー・ロビンス、良いこと言うじゃないか。 さてさて最後にカットしてから15ヶ月以上。 ロビンソン・クルーソーみたく、髪がすごい伸びた。 そこでツルツルで毛量が多い私の髪をしっかり留めてくれるバレッタは無いものか…と探してて見つけたのがこれ。 EtsyのScrunchie Shack UKで見つけた。 軽い上にすごいしっかり留まる。 ブラウスはオランダのファビアン・シャポーのもの。 彼女のデザイン、カッティングとか縫製は普通だし、素材はビスコースなんだけど、小さいながらもインハウスでテキスタイルのデザインをやっていた。 しかもそれがかなり独創的でユーモアに溢れていたので、私も3つの柄を持ってる。(この頃は知らない。) 服のパターンは毎年同じ…なんだけど、生地のデザインをシーズンごとにやっていたのよね。 初めて目にしたのは、ザリガニ柄のブラウスだった! それは当時既に前の前のシーズンとかのもので買えなかったけど、心を奪われてしまった。 お察しの通り、万人受けする柄じゃないので、当時はあちこちで売れ残っていた。 そのせいか、最近の柄は無難になってきて興味を失った。 大きくなると個性が無くなるのはアパレル会社の宿命なのかねー。 これは唇柄。 これでスカイプに出ると、道端ですれ違う人も皆、ちょっとクスッとなるよね。 そういうの、嬉しい。 |
Ray of Sunshine
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