![]() 小さい頃の私は、ご先祖さまがもっと身近だったなぁと思い出すのです。 特に信心深い家庭に育ったというわけでもなく、ただ、子ども心に感じてた安心感は、いたるところにあった温かいエネルギーのことだなと、大人になってからエネルギーを学んだ私は、ハッとさせられました。 私の父の実家は、男四人兄弟に末っ子の妹という構成で、男兄弟間のライバル意識が半端なく、喧嘩が絶えなかったけれど、祖父母が健在の頃はお正月には必ず、皆が嫁と子どもらを連れて挨拶に集まっていました。 その集まり方はオーガニックで、皆がポロポロと集まり、やがて全員揃う…、別に祖母とも「今年のお正月はいつ来る?」なんて打ち合わせはしておらず、皆がそこへ集まってきていたのです。 ところがこの祖母は生前、モーレツな嫁いびりと依怙贔屓をする人だったので、派閥を作ってしまいがちだったため、嫁にとっては修行タイムであり、息子らにとっては喧嘩タイムでありました。 そんな祖母ですが、今思い出すと、彼女は伝統やしきたりを大切にしていたことが伝わってきます。 私の記憶の中ではずっとほぼ寝たきりだった祖父が、私が小学校に上がるかと言う頃に亡くなってからは集まることも年々減りました。 それと前後して、兄弟らの人生も歯車が狂い始め…、今は父方の親戚とはほぼ縁が切れてしまいました。 いとこも総勢10人ほどいたけれど、全く会うこともなくなりました。 「だって、別に仲が良いわけでもないんだから、わざわざ集まる理由がないでしょ?」そんな感じ。 こういうのって、一瞬日本っぽいって感じられるかもしれませんが、実は欧米でもよくある話で、欧米ではクリスマスがそれに相当します。 パートナーの実家の集まりに毎年手料理を持参して参加していた友人も、去年のクリスマス後「会ってもどうせいがみ合うだけだから、来年から行かないことにした」と宣言しました。 ところが、その数日後、パートナーのお母様が亡くなられたのだそう。 クリスマスの日に骨折したことから入院、話を聞いていると、私には彼女(友人のパートナーのお母様)の生命力はどんどん弱っていったように感じられました。 さて、今年になって、私は以前よりも、この生命力というエネルギーに意識を向けるようになりました。 ある時ふっと閃いたのです。 実はこの嫌々集まっていたお正月(欧米ならクリスマス)は、綿々と受け継がれてきた生命力を繋げる働きがあったんじゃないかって、感じるようになりました。 家族仲が良好であれば無論楽しいでしょうが、私の父の実家や友人のパートナーのケースのように、ストレスの方が強いというケースも決して珍しくはありません。 しかしながら、何であれ、物質主義的観点から物事を見つめるのと、エネルギー的観点から物事を見つめるのは全然見える景色が違います。 物質主義的観点で楽しいか、楽しく無いかとは関係のないレベルで、今、私たちを生かしてくれている命というエネルギーをリニューアルする働きがあったのではないかって。 ご先祖様から綿々と受け継がれてきた生命の繋がりを、笑ってようが、いがみ合ってようが、改めて強化されていたのが、年に一度作られていたあの空間だった気がするんです。 この、生命の繋がりは正に命綱みたく、今も私たちを守ってくれている気がします。 生命は、動物でも植物でも同じですが、一つでは生存率はグッと下がります。 中でも人間の場合それが顕著で、家族というコミュニティが各個体の生存率を支えてきました。 家族という繋がりは命綱ですが、ここずっと、数千年規模で、これを壊す試みがずっと人類になされてきました。 「だって、別に仲が良いわけでもないんだから、わざわざ集まる理由がないでしょ?」 「わざわざ嫌な思いする必要もないし…」 嫌な思いをしてまで実家に帰らなくて良いのですが、心のどこかに、この命綱によって、そんな自分も守られてきたのだということを少し置いておくだけで、生まれる前から綿々と続く、私たちを生かしてくれている生命の繋がり(命綱)を改めて感じることができます。 何度も書いていますが、私たち人間にとって感じることができない=存在していないに等しい…なので、感じることができるようになると生命力はより一層輝きます。 そしてそこから、感謝が自然に生まれる…、そんな感じがするんですよね。
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Ray of Sunshine
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